土曜日, 4月 22, 2006

感じないものを感じる

土曜の昼。
外は風が強く寒いけれど、
ヘッドホンで音楽を聞きながら、
研究室の窓から流れる雲をみていると
どこか別世界をテレビで見ているようだ。
とても気持がいい。

「感じないものは無いのと同じだ。」もちろんこの命題は間違っている。
たしかに、本当に「無いもの」は感じられない。

「無い」とは難しい。

黒の中の白、空の瓶、空腹、快晴、葉の落ちてしまった冬の樹木。
そこでは、「無い」けれども周りとのコントラストの中で
確実に「無い」を主張していて、「無い」を私達は感じてしまっている。
だから、上にあげたようなものは「(無いが)ある」のである。
「無いもの」を感じているのではないのだ。

さて、「もの」が身の周りに溢れいてる私達の世界では
しばしば「感じないもの」は「無いもの」とされてしまっている。
でも実は、そのままでは
(感覚をとぎすまさなければ、道具を使わなければ、
時間をかけなければ、視点を変えなければ、
つまり、現時点での写像(map)を変えなければ)、
感じられないものなだけである。
そして、そんなものの方が沢山ある。

たとえば、
  • 小さいものなら顕微鏡、遠いものなら望遠鏡
  • 超音波なら千分の数秒スケール、大陸の移動なら数千万年スケール
  • 携帯に使われている電波ならアンテナ
  • 海外にいるなら現地の言葉(日本語という写像では意味が感じられない、理解できない)
  • 嫌いな人の良い所、好きな人の嫌な所(恋は盲目ね!)
  • etc....
ただ、そのままでは感じないものを観じた人がその感動を伝えるのも、
やっぱりそのままでは感じてもらうことはできない。
相手の写像に合わせる(わかる言葉、表現に変換する)なりの工夫が必要になる。

「(そのままで)感じるもの」では既に豊かになった私達はそろそろ、
「(そのままでは)感じないもの」でも豊かになることを始めてみるのはどうだろうか?
「(そのままでは)感じないもの」の世界は、
私達が想像する以上に深く広大であることは間違いないだろう。

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