水曜日, 6月 28, 2006

いい話です

ネットサーフィンをしていると
嫌な記事を目にすることも大きけれど
いい話ももちろんあります。

甘ッチョロイ話やいいことばかりの話もあるけれど
それは今はそれでよしとしたい。

そんな話を旭山動物園(http://www5.city.asahikawa.hokkaido.jp/asahiyamazoo/)
の園長室、ゲンちゃん日記で見つけました。
動物達にたいする暖かいまなざしと
私達人間に対する厳しさとを感じます。

アップルコンピュータのスティーブ・ジョブスのスピーチです。
(http://pla-net.org/blog/archives/2005/07/post_87.html)
自分のしていることに自信を無くしそうになったら読んでください。
なんのために生きているのか気づかせてくれます。
大事なものは一体何でしょう?
それはきっと私達にはわかっているのだと思いました。

BOOK 安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方
山岸 俊男 (著)
中公新書

Bookoffで買って、知らずに読んでいたのだけれど
著者は北大の心理学の先生でした。

人間の心理から社会システムのあり方を問うた
おもしろい本。

こういうの好きです。説得力があります。

私達人類は、社会の中で対人に関する知性を
獲得してきました。

それらの知性が閉じた社会(村など)や
開いた社会(都会など)でどのように重要になるのか
議論されている。

つまり、社会的な不確定要素を少なくするためには
どのような戦略をとるのがよいのか?

結局、現代のように多くがグローバルになってしまうと
なるべく情報をOpenにして、不確定要素を少なくするための
コストを少なくしなければ、うまくいかないのだそうだ。

これって、いままで現象論としていくつかの事例はあったけれど、
どうしてなのかひとつの説明があたえられたのではないでしょうか。

Amazom.com
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121014790/qid=1151463853/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-1434028-8192310

BOOK 無思想の発見

無思想の発見
養老 孟司 (著)
ちくま新書

「無思想はフレキシブルだよね、都合がいいのさ。
だから何事にも寛容なんだよ。器がでかいってこっと。
みんなつまらない思想に囚われていないで、
日本古来の「無」の思想に戻ろうよ!」
っていっているように思った。

これはこれでいいよね。たしかに都合がいい。
うまく行きそう。
論理的に考えてうまくいきそうな戦略なのに
なぜかみんながみんな、とういよりほとんどの人類は
「無思想」を採用していないのです。

きっと「有思想」には、強い引き込みがあるのです。
思想なしではふらふらと不安で、
不自由を承知で何か基底を自ら定めて、
それからでないと生きてゆけないから、
多くのひとが有思想でいるのだろう。

どうすれば、「無思想」に鞍替えできるのか
その辺も書いて欲しかったね。

でもやっぱり、よくもわるくもクソジジイだなこの人は。
小生は生意気にもそう思いました。
こんな人が結構好きです。

Amazon.com
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BOOK 世にも美しい数学入門

世にも美しい数学入門
藤原正彦(ふじわらまさひこ)、小川洋子(おがわようこ)著
ちくまプリマー新書

とても簡単な本、半日もかからずに読み終った。

数学者は「数学」をどう感じているのか?
著者の数学者藤原氏は、
「数学はただ圧倒的に美しいですから」という。

「それだけでいいのだ」と思った。
美しいものをなぜ美しいのか説明するのは野暮だと思った。

藤原氏数学は、とくに美しい数学は、すぐには役には立たない。
役に立たないから偉いとまで言う。

あぁここまで独善的でよいのか、究極的な美しさはそれまでも許されてしまうのです。
美しさには存在の理由などたしかに必要ない。
そんな説得力が美しさにはあります。

小生はまだまだ修行が足りないので、
目に写る美しさに引き込まれますが、それでもいい。
その美しさに理由など必要ありません。

ちなみに、小川洋子さんは「博士の愛した数式」の著者です。

Amazon.com
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480687114/qid=1151462313/249-1434028-8192310

土曜日, 6月 17, 2006

人の集まりから祭へ

あまり暖かいと感じない札幌ですが、
今日は雨が降っていたせいかもわっと暖かい日でした。

最近、小生はサイエンスコミュニケーション、サイエンス・カフェなる
ものに入れ込んでおります。

サイエンスコミュニケーションとは、
「科学技術の研究グループの一員として,自分たちの研究成果や研究の意義を,魅力的な広報誌やウエブ・ページで,広く社会に向け,わかりやすく発信していく(引用先:北海道大学 科学技術コミュニケーター養成ユニット CoSTEP
http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/qanda2.html)」ことなのだそうだ。

最近、日本中でサイエンスコミュニケーションの一環(いっかん)としてサイエンス・カフェなる催しが行われています。もちろんここ札幌でも開かれています。

日本各地で行われはじめているのですが、盛り上がりはいまひとつといったところでしょうか。(ほとんどの日本人がまだ知らないので)

私、この催しはなにやら「祭」になる予感がします。「祭」なる不可思議なものがどのように起こるのかとても楽しみです。

実は、「自分たちでもやってみないかい?」「サイエンスコミュニケーションを勉強してみようよ」という声が、私の周りでも挙がるようになりました。そして昨日、はじめてのワークショップ(勉強会みたいなもの)がありました。

結局、よくしった顔が集まったのですが、「ようしやろう!」と言った熱気を感じました。これからが楽しみです。

日曜日, 6月 11, 2006

自己防衛 - 「生意気」と「へ理屈」-

「生意気」。他人から見た私の性格の様です。
ここ一年ぐらいで、自覚するようにもなってきました。

「生意気」というのは他者に対する「敬意」が足りないということですか?
確かに、尊敬している人は手で数えられる程しかいません。
ただ、誰に対しても「誠実」でありたいと思っています。
そして、それを日夜実行してます。

「へ理屈」。相手をとてもイライラさせるようです。
「共有」したいから、共通ルールを探しているだけなのです。
でも確かに私には、暗黙のスキル「察する」感覚が
特に欠如していることに気づいてきました。
暗黙のルールが使えない分、「理屈」を使おうとします。

「へ理屈」は、あなたを拒絶しているわけではないのです。
あなたと共感したいという感情の発露です。共感するための方法です。

私は、皆さんのこの社会の器の大きさを根拠もなく信じています。
その器の大きさに甘えている子供のようだと思っています。

ただもっとあなたの体温を感じながら話がしたい。そういうことです。

水曜日, 6月 07, 2006

認知障害と進化

生物の進化は環境への適応戦略の結果であるというのが、ダーウィニズム(進化論)の基本的な考え方です。その理論が正しいならば、私達人類も生物である以上、現在の遺伝子の表現型としての個体が進化の結果であります。

「自閉症」や「ADHD」を患う人が人種を問わず、またある程度遺伝性を持つことが明らかになってきたことを授業で学びました。つまり、遺伝子の獲得形質が環境への適応の結果ならば、「自閉症」や「ADHD」という遺伝子も環境への適応の結果といえます。「自閉症」や「ADHD」の遺伝子を持っていることが、生存競争の中で有利に働いていた(いる)ことを示しているのかも知れません。

(遺伝性の「自閉症」や「ADHD」とそうでない場合でも、その認知障害のメカニズムは同じかもしれません。ですが、ここでは以下、遺伝性の場合についてのみ議論します)

ただ、現代の社会環境では「自閉症」や「ADHD」を患う人々は、「構造化された環境」のもとで、よりその能力を発揮すると学びました。現代の人間社会は、人類の多様性を担保することで、発展を維持しているようにみえます。自然界の弱肉強食のルールとは違った形で、生態系の安定を保証しています。つまり、「構造化された環境」を提供されなければ能力を発揮できない個体は、自然界では生き残れないのです。「構造化された環境」を提供することで、その個体を集団に組み入れ、集団の多様性を維持している。

そう考えると、「自閉症」や「ADHD」という認知方法は、我々の祖先が集団を形成し、集団の中で役割分担をし、構造化された頃に発生したと考えられます。

現代でも、「自閉症」や「ADHD」を患う人々一人一人に、それぞれに適した「構造化された環境」を提供することは大変困難です。ほとんど提供されていないのが現状ではないでしょうか。それでも、遺伝形質として淘汰されてしまっていないのには訳があるのでしょうか?

「自閉症」や「ADHD」の認知障害の特徴から、その認知方法がどのような環境により適応していたのかを検証することは、患者の方達やその家族を支援する具体的な方法や個々に適した「構造化された環境」を提供することの何かヒントを与えてくれるかも知れません。もしかしたら、とてつもない能力なのかもしれません。今後の認知科学や心理学の研究に期待します。

認知や心理に関する興味は、私にとって潜在的なものです。他人の行動や発言は自分をうつす鏡のようなものであるように、「自閉症」や「ADHD」という認知障害は、自分の潜在的な認知活動を知る上で鏡のようなものなのだと思います。

近年の分子生物学の成果、スモールネットワーク理論、鳥インフルエンザの感染爆発(ウィルスの遺伝子形質の変化)、異常気象による巨大ハリケーン発生現象などを知れば知る程、この世の中のあまりに絶妙なバランスというものに驚かされるばかりです。それぞれの要素が緩やかにかすかに関わりあっています。その関わりが全体の安定にどれくらい寄与しているか評価するのはほとんど不可能です。

おそらくそれと同じように、さまざまな認知的特徴をもつ個人がつくる集団は絶妙なバランスを作っているのだと最近よく感じるようになりました。見知らぬ人たちが集まっても、自然と役割分担をし、集団を構造化します。特定の個人のがその集団に及ぼすダイナミクスを推し測るのは、上記の理由でほぼ不可能です。そういった観点から自分たちの社会を見る必要もあるように思います。 もはや、複雑ネットワークを要素還元的に記述することが不可能なのは、数学、情報科学分野などでは自明となりました。人文系の人々は昔から感覚的に気づいていたのでしょう。

ヒトの認知、心理構造から得られた知見が、私達のよりより幸せに活かされることを祈ってやみません。そしてその知見にすこしでも貢献できるよう私も計算論的な神経科学の方面から頑張りたいです。

ちょうどこれを書いている間に、「進化認知科学、進化心理学」という学問分野が存在していることを知りました。そして、21世紀COEプログラムとして東京大学のグループが中心となって「心とことば - 進化認知科学的展開(http://ecs.c.u-tokyo.ac.jp/index.html)」と題したプロジェクトがあることを知りました。このプログラムの目的は、「認知科学、言語科学、進化人類学、 進化心理学、遺伝学、小児科学、情報科学などの連携による学際融合研究を行い、グローバル化が進む現代社会における人間理解の知的基盤を提供」することだとしています。

このように、認知科学や心理学、情報科学の見地から社会システムのありかたを研究し、提言する活動がより活発になってゆくことに期待します。