日曜日, 5月 28, 2006

受動的エンターテイメントとしてのサイエンスカフェ

5月26日に 毎日新聞社科学環境部記者 元村有希子さんが
「第一回科学ジャーナリスト大賞」を受賞されました。
受賞理由は「ブログを含む『理系白書』の報道」だそうです。
Blog URL: 「理系白書ブログ」 http://spaces.msn.com/rikei/

元村さんは「理系白書(毎日新聞科学環境部 著)」の著者の一人です。
Amazon.com: http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062117118/249-7834674-0596366

「科学ジャーナリスト大賞」が何なのか知りませんが、
「理系白書」が示唆に富む問題提起をたくさんしていたので印象に残っています。

元村さんのBlogを読んでいたら、
「サイエンスカフェ」のことが書いてありました。

現在の日本における「サイエンスカフェ」の状況と
英国の状況、その比較がすこし書いてあるので引用します。

(以下、引用 URL: http://spaces.msn.com/rikei/blog/cns!B2DB7723CECCAA05!6011.entry?_c11_blogpart_blogpart=blogview&_c=blogpart#permalink)
さて、きょうはブリティッシュカウンシルで開かれた、サイエンスカフェについての催しに出かけた。

英国でサイエンスカフェを仕掛けているアン・グランドさんという女性の話を聞いてきた。

サイエンスカフェとは、くつろいだ雰囲気で、科学や技術の話題を専門家から聞き、自由に質問したり、意見を言ったり、参加者同士で議論したりできる場のことである。「くつろいだ雰囲気」を大切にするので、実際にカフェやパブで、飲み物や軽食を片手に開かれることが多い。

ちなみにきょうの催しも、開催前と途中の休憩には軽食とアルコールが出て、参加者同士の会話が弾んだ。

日本でも最近かなりメジャーになってきたが、全国津々浦々という感じではない。拠点になりつつあるのは、北から札幌、仙台、東京、京都、ぐらいだろうか。

アンさんによると、英国では「サイエンスカフェはもはやニュースではない」そうだ。つまり各地で根付いて、継続的に開かれている。推定で年間5万人ぐらい参加しているそうだから、日本とはおそらく2ケタ違う(多分)。

彼女の話はとても刺激的で、ここでいま詳細に書くと、未消化なまま固まってしまいそうだからもう少し熟成させたいと思う。以下はポイント。


・「こうやれば成功する」とか「こうしなければならない」という型にこだわらない方が、結果的にはうまくいくかもしれない。

・話題は参加者が決める。参加者が望むものは話題になる。それが、議論が対立するものであってもいい。

・ファシリテーター(話題提供者と聴衆のつなぎ役)の役割がとても大切。

・聴衆が主役、これが大原則。


ついでに、日本のサイエンスカフェが、公的な機関や学会や大学を中心に試みられているのに対して、英国では市民サイドから草の根的に始まるケースが圧倒的だという。

この違いは「日本らしい」ということもできるし、ひょっとしたら、いま「はやり」の科学コミュニケーションが、残念ながらいまだに「送り手発想」から抜け出せていないってことなのかもしれない。

昔ながらの「大衆に教えを授ける」発想が、スタイルを変えただけで生き残っていく、なんてことにならないようにお願いしたい。
(以上、引用)

元村さんの記事によると、
日本でも徐々に盛んになりつつある。
日本では学術拠点が行っているのに対し、英国では市民サイドから始まるケースが圧倒的に多い。この原因が日本のサイエンスカフェが「送り手発想」から抜け出ていないからではと指摘してる。

なぜ、英国では草の根的サイエンスカフェが起こるのか良くわからない。
ただ「知る「ということに貪欲なだけ(好奇心が旺盛)なのか、
それとも生存競争の「戦略」としてサイエンスが優位に働くのだろうか。

日本ではどうして「送り手発想」から抜けきれないのだろうか。
その原因とか根底を流れる哲学や思想、文化について考えてみることは
大事なことかもしれない。
現在の「科学技術コミュニケーション」がただの流行りなのか、
それとも意識改革のはじまりなのかそれを見極める手がかりにもなるだろう。

以下は、私の印象です。

「研究」などの「専門」は「専門家」のものなのだろうか?
この問は、おそらく日本では「Yes」だ。
だから、専門家は「私の専門に興味を持って頂けるのはたいへんありがたい。
だから教えてしんぜよう。でもそれ以上知りたいなら、死ぬ程勉強してあなたも
専門家になりなさい]といった発想が見受けられる。

一方,市民は「やっぱり最先端は面白いね。もっとたくさんお話を聞きたいな。
次回のサイエンスカフェが楽しみだ」という発想だろう。

どちらも「当り前」に聞こえるかも知れない。
そこには「演者と観客」といった構図がある。
結局、「サイエンスカフェ」も日本では「受動的エンターテイメント」
にしかなっていないのかもしれない。

近年、「参加型ホニャララ」という「エンターテイメント」が流行るのは
「受動的エンターテイメント」への飽きと「参加への欲求の高まり」の
現れだろう。その流れに「サイエンス」も乗っかっているだけのようにも
みえる。ただ流行りの「よさこいまつり」や「ボランティア活動」と異なり、
科学的専門性への壁が高いので「参加」が消極的になっているのだろう。

科学的専門性の壁を高くしているのは何なのだろう。
それは「科学者、専門家のプライド」がい大きい影響力をもつと私は思う。
「所詮、素人の一般市民に何がわかるのさ」、
「俺はこの道、30年のベテランだぞ、まぁ何でも聞きなさい」
ってな具合ではなかろうか。
(専門家としての誇りと仕事の質は比例するのでしょうか?
仕事に対するプライドもつこととその仕事をsanctify(聖別)することは同じこと?)

前回のサイエンスカフェ札幌のゲストスピーカー 永田晴紀さん 
(北海道大学大学院工学研究科助教授,宇宙工学)が
町の皆さんは、自分たちのロケットだから熱心に応援、支援してくださるんです」
とおっしゃっていた。
おそらく、「草の根的サイエンスカフェ」が日本でほとんど起こらないのは、
市民が「サイエンス」を自分たちのものだと思っていないからだろう。

この市民たちのサイエンスに対するスタンスを決めているのは、
「専門家の自分の専門に対する市民のコミットメントへの寛大さ」と
「ファシリテーターの科学哲学」に問題が帰着すると思う。

木曜日, 5月 25, 2006

Open Source Software in MultiMedia

ついにオープンソースでフル3Dアニメーションムービーまで
作られるようになってしまった。すごい。

私は日頃から、LinuxというOpen Source Softwareを使っている。
Open Source Softwareというのは、
いわゆるフリーのソフトウェアのことである。
フリーというのは、「タダ」というだけでなく、
むしろ「自由」なソフトウェアのことを指してる。
(詳しいOpen Sourceの定義は、以下を参照してください。
オープンソースの定義 八田真行訳、2004年2月21日
http://www.opensource.jp/osd/osd-japanese.html)

さて、Open Source Softwareは、
コピーして使うのももちろん「フリー」である。
だからそのソフトウェアでは、ほとんど儲からない。
(売られいても、他からコピーしてもいいなら、
わざわざ買わないだろう)
ちなみに、世界一売れているマイクロソフト社のソフトウェアを
コピーして使ったら、それは立派な犯罪です。
(マイクロソフト社は大変儲かっています)

そんな儲からないOpen Source Softwareは、
作っても儲からないので、
手間のかかる、ユーザーのそんなにたくさんいない
分野のソフト(マルチメディア)の開発は、
ブラウザやオフィースなどのソフトに
比べるとそんなに進んでいないと思っていたら、
そんなことはなかった。

なんと、フル3Dアニメーションムービーを
Open Source Softwareだけで作ってしまったのだ。
その短篇ムービー(約10分)の名前は、
「Elephants Dream」http://www.elephantsdream.org/index.php

『これはOrangeProject という、アーティスト・開発者が集まり、
6ヶ月で3DショートムービーをBlender というオープンソースの
CGソフトで制作するというプロジェクトの成果物です。』
(http://slashdot.jp/articles/06/05/25/0249246.shtml の xzr (7110) のコメントから引用)

映画製作といえば「マルチメディア」の代名詞ではないか!
ここまでできるなら、
これからはもう「Open Source で何でもできる」と
胸をはって言えるな。

関連記事:
Openな映画Elephants Dream(Slashdot Japan)
http://slashdot.jp/articles/06/05/25/0249246.shtml

水曜日, 5月 24, 2006

五月病

いやはや、何か春と初夏が一辺にやって来たような感じの札幌ですが、
ここ二日ほど肌寒い日がつづいています。

先週は何かとばたばた(恐れ多くも忙しいなどとは申しません)していました。
まわりに感化されて勉強をしてみたり、
生協の会議にでてみたり、
滋賀でお世話になった先生が学会で札幌にいらしゃったので、会って、またご馳走になってしまったり、
研究室の新入生(自分ら修士1年)の歓迎会に参加して、3次会で朝5時まで飲んで、
また、昼から数学専攻のジンパ(ジンギスカンパーティー、ラム肉のBBQ)にいって夕方までまた飲んで、
そのまま、野球の練習に参加して、友達とコーヒー飲んで、
次の日、夕方から本気でフットサルをやって夜の12時ぐらいに帰って来て
月曜の朝8時45分から自主ゼミをやったら
さすがに疲れが溜ったみたいで、
カゼ引きました。

あぁこれが「五月病」というものなのですか。
つまり4月のうきうき気分のまま、全力で遊びすぎるとやっぱり疲れて風邪を引く。
それが「五月」におこる。だからみんな「五月病」にかかるのね。

そういえば、滋賀からいらっしゃった先生が一日4、5時間しか寝られないと言っていました。
うむ、それでは五月病どころではないですが、そんなのにかかってる暇もない。
(暇とかいうはなしじゃないですが)

でも世の中、出来る人にはどんどん仕事がまわってきて、どんどん忙しくなる。
出来の悪い人からはどんどん仕事がなくなって、どんどん暇になってゆく。
働いて忙しい人はrichだけれど使う暇がない。
仕事がなくて暇な人は暇があるけれど使うものがない。
おそらくこれもべき乗則(power low)になっているものと思われる。

忙しい人が毎日ブログを更新しているのを見ていると、
どんなに仕事率がいいのかと考えてしまう。

私の場合こんな物でも、半日もかかってしまうのだから。

土曜日, 5月 13, 2006

activation

わたしは五階にいる。
風にのって桜の花びらが舞っているのが見える。
どっかの生命保険会社の宣伝で
「♪花の命は結構長い♪」といっていたけれど、
桜の花の命はやっぱり結構短い。
そんな訳で札幌は春まっただ中です。
(Blogの調子が悪いのか、私の使い方がよくないのか
桜の写真をBlogに張ることができずにいます。残念。)


「活性化(activation)」
脳の活性化、地域の活性化、


第8回 サイエンス・カフェ札幌 「北海道のCAMUIロケット」
ゲスト:永田 晴紀さん/北大大学院教授
http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/sciencecafe.htmlのお手伝い(応援し)に行ってきました。

永田さんが熱いことをいろいろとおっしゃっていたので、
自分をactivateするためにここに記す。

ロケット:
・「おもしろいをすり込む」
何がおもしろいかというのは、思い込みである。
学生達がデータを出してきたとき、
学生達は私(永田さん)の顔を見るのだそうだ。
そのとき、「このデータは面白いね」
と何がおもしろいのかを学生達にすり込む。


・「学生達は宇宙人になる」
宇宙開発という分野で日夜研究に全力で取り組み続けていると
艱難辛苦が快感になってしまった人達なのだ。
< わたし、こんな研究魂、技術屋根性、職人気質に憧れるのね。


社会:
・「町おこし(地域の活性化)には、ハコモノは必要なし! 本物を見せろ!」
お客さんから出た「博物館などのハコモノを建てて、地域の活性化をはかろうとしたけれど、
その後が続かず行き詰まっている企画をよく見ます。
何かよいアドバイスをください (こんな感じだった)」という質問に対する永田さんの返答。
< やっぱ本物が一番面白いよね。
ただ全てが「答えがありき」な科学感(できあがった科学、体裁を整えた科学)で本物を見るときっとかなり辛い。
それは、本物は概して「答えがない」「簡単にはうまくいかない」から(すっきりしてない、泥臭いのね)。
そのreality=本物を損なわずに市民のみなさんにどう覚悟してもらうか、
麻痺させるか、中毒になってもらうかがサイエンスコミュニケーターの腕の見せ所だろう。

・「社会と太いpathがcashを集める」
「お金が有れば何でも買える。人の心だって買える」(某IT企業元社長)
人の心はお金で買えます。
だたし、必要なのはキャッシュ(一時的なお金)ではなくフロー(持続的なお金の流れ)。
CAMUIロケットへ寄せられた思いは、巨額な資産(フローを生み出すもの)。
< う~む。大事なのはフローってことか?
人の行き交い、モノの行き交い、情報の行き交い、金の流れ(フロー)、人の思い。
なにかが生まれる、創造、創発されるメカニズムがそこにあるのだろう。
文化や文明はそれ自体が、人類総体が無意識(集団的無意識)に発明した生命維持装置であるなら、
「行き交い(フロー)」が生み出すメカニズムは生理学的にはなにに相当するだろうか?

おそらく、一個体や特定の細胞のように複雑なメカニズムであるけれど
なにか決まったプロトコールのある(DNAとその発現のような)ダイナミクスではないだろう。
目的も価値観もさまざまな集団の「行き交い」が生み出すダイナミクスはカオスにちがいない。

何かを生み出そうとするなら(そもそも目的をもって生み出すことができるのか不明)
さまざまな「行き交い(流れ、フロー)」を呼び込まなければならない。

社会を構成するのは「ひと」である。つまり、ます「人」のフローを呼び込む。
これに尽きるのだろう。
そしてこれが一番難しい。
なぜなら、ひとの「思い」はさまざまだから。
この「人的フロー」をうまく呼び込むことができる人に、
結果的に「モノ」が集まってくるのだろう。


今回のサイエンス・カフェの終盤、会場が異様な熱気に包まれてた。
そのときは、永田さんの話にお客さんが興奮しているからだと思っていたが、
実は、自分がまさに感動して、体がほてっていたのだ。
う~む、かなりactivateされたイベントだった。


参考Links:
CoSTEP(科学技術コミュニケーター養成ユニット、サイエンス・カフェ札幌の企画、運営)
http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/

日曜日, 5月 07, 2006

「♪襟裳の春は何もない春です♪」

タイトルは1974年に吉田拓郎が書いた歌「襟裳岬」の歌詞の一部。

GW(3、4日)を利用して、襟裳町へ行た。
大学の友人が新任高校教師として、この春から襟裳町に赴任してる。
そこへ遊びに行ってきた。

北海道は広い。

人はよく友人知人が尋ねてゆくとき、
「何も無い所だよ」「何も無いよ」という。

僕もかつて「カンボジアには、何もない。
せいぜいアンコールワットぐらいだろうか」なんて言っていたことがある(生意気に)。

しかし今回、札幌に住み始めてから初めて札幌を出て、襟裳に行ってみてわかった。

「何も無いなんてことは、絶対に無い」のである。

おそらく日本語の「何も無いよ」というのは、
一種の謙遜か都会や街と比べて相対的に「少ない」を
大げさに表現しているだけであろう。

札幌から襟裳に向かって移動中、車の窓から北海道の広大な景色を見ながら
「本当に北海道って何も無いんだな」などと僕は言ってしまったが、
それはただ「人工物」が極端に少ないだけ。

人工物と情報に溢れ返った都会、街での暮らしに慣れてた自分は、
それらが少ないだけで、「無い」と錯覚してしまうのだろう。
ただ感覚が鈍くなっているだけなのに。

襟裳に赴任した友人は、
「毎日、空の色が違うんだ。」と言っていたのが印象的だった。
きっとそんな違いに気付けるほど、感覚が鋭い(鋭くなった)のだろう。

ただ人は環境に慣れてしまう。
もちろん慣れなければ、心穏やかに過ごすことができない。

環境に慣れながら、鋭く繊細な感覚を持ち続けるにはどうすればよいのだろうか?

都会や街では、これでもかというぐらいドキツイ表現が溢れていて、
感覚がどんどん麻痺してしまう。
その麻痺した感覚にもひっかかるようにどんどんエスカレートしてゆく。
この繰り返しは終りが無い。

月曜日, 5月 01, 2006

質問

五月である。雨である。
確実に春である。
札幌の桜はまだ蕾(つぼみ)のままである。

新学期がはじまって、もう1ヵ月が経ってしまった。
当然いろいろなことがあった。
新しい出会い、新しい環境、新しい自分。
何もかもが一見新しく見える。

新しい授業のかたち、
まず「質問」ありきである。教官はそれに答えるかたちで授業が進む。
その教官曰く、
「講義という生徒の受身の態度では、効率が悪い」
のだそうだ。
「君は何が知りたいのか?」
その問に答えることで生徒の積極的な態度を引き出し、効率のよいものになる。

夕食に友人と食事をした。
彼は「日本史」を専攻している。
私は彼に「日本史の何が面白いのか?」と尋ねた。
彼は言葉に一瞬言葉につまってしまった。

今になって思えば、何という愚問をしたのだろうと。
相手から面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
こちらも面白い、気の効いた、意味のある質問をしなければならなかったのだ。

おそらく面白い、気の効いた、意味のある質問とは、
「自分が何が知りたいのか」、それを聞くことなのだ。

「そんなの当り前だ!」といわれてしまいそうだが。

だけれどその「当り前」のことができなかった。
それは「日本史の何か面白いのか?」という質問が、
日本史を学んでいる人には意味不明であり(面白いからやっているのだ)、
こちらが「面白さ」を真摯に尋ねてはいないからである。

「数学」を学んでいる私に、「数学の何が面白いのか?」と
尋ねる人はおそらく数学の「面白さ」を知りたくてそのような質問を
したわけではないだろう。

だから面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
「ナニナニを知りたい」なら、
「ナニナニとは何か(どういうことか)?」
という具体性をもった質問をしなければならない(ならなかった)。
(「日本史の面白さ」とはあまりにも抽象的だった)

質問をする瞬間、一体自分は相手から「何を聞きたい」と思っているのか
しっかり自覚する必要がある。
(こんなことに、今ごろになって気づいた)

ときどき、自分が何をしたいのか、何を知りたいのか分らなくなることがある。
疲れているのか、腹が満ちたりているのか。

自分の外界への興味を失う時、そんなことが生物である私にあって良いものなのか?
生物として決定的な本能を欠いているのではないだろうか?

そんなとき、外界から嫌でも入ってくる刺激(受身の刺激)が
しかたなく世界と自分をつなぎ止めている。