五月である。雨である。
確実に春である。
札幌の桜はまだ蕾(つぼみ)のままである。
新学期がはじまって、もう1ヵ月が経ってしまった。
当然いろいろなことがあった。
新しい出会い、新しい環境、新しい自分。
何もかもが一見新しく見える。
新しい授業のかたち、
まず「質問」ありきである。教官はそれに答えるかたちで授業が進む。
その教官曰く、
「講義という生徒の受身の態度では、効率が悪い」
のだそうだ。
「君は何が知りたいのか?」
その問に答えることで生徒の積極的な態度を引き出し、効率のよいものになる。
夕食に友人と食事をした。
彼は「日本史」を専攻している。
私は彼に「日本史の何が面白いのか?」と尋ねた。
彼は言葉に一瞬言葉につまってしまった。
今になって思えば、何という愚問をしたのだろうと。
相手から面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
こちらも面白い、気の効いた、意味のある質問をしなければならなかったのだ。
おそらく面白い、気の効いた、意味のある質問とは、
「自分が何が知りたいのか」、それを聞くことなのだ。
「そんなの当り前だ!」といわれてしまいそうだが。
だけれどその「当り前」のことができなかった。
それは「日本史の何か面白いのか?」という質問が、
日本史を学んでいる人には意味不明であり(面白いからやっているのだ)、
こちらが「面白さ」を真摯に尋ねてはいないからである。
「数学」を学んでいる私に、「数学の何が面白いのか?」と
尋ねる人はおそらく数学の「面白さ」を知りたくてそのような質問を
したわけではないだろう。
だから面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
「ナニナニを知りたい」なら、
「ナニナニとは何か(どういうことか)?」
という具体性をもった質問をしなければならない(ならなかった)。
(「日本史の面白さ」とはあまりにも抽象的だった)
質問をする瞬間、一体自分は相手から「何を聞きたい」と思っているのか
しっかり自覚する必要がある。
(こんなことに、今ごろになって気づいた)
ときどき、自分が何をしたいのか、何を知りたいのか分らなくなることがある。
疲れているのか、腹が満ちたりているのか。
自分の外界への興味を失う時、そんなことが生物である私にあって良いものなのか?
生物として決定的な本能を欠いているのではないだろうか?
そんなとき、外界から嫌でも入ってくる刺激(受身の刺激)が
しかたなく世界と自分をつなぎ止めている。
2 件のコメント:
少し話がそれますが、対話の中で質問をする聴き手というのは良い聴き手だと思います。
質問をするということは、きちんと相手の話を聞いている証拠だから。
何かをきっちりすっきり説明するというのはとても難しいことで、必ず何かしらの補足が必要になってくるけど、質問もせず納得した顔で終わっている人は結局、外面だけ舐めて、本筋についてきて来なかった人なんじゃないかと思う。
>co.co.roさん
確かに、「何かをきっちり説明するというのはとても難しいこと」ですね。大学に戻ってから、授業やセミナー、自主ゼミ等で「(他人に)説明する」機会が急に増えました。ほとんどの場合、説明すればするほど「ぼろ」がでて論理的でなかったり、意味不明だったり、支離滅裂だったり、つまり、勉強不足を思い知らされます。そんなとき、他の人からの「質問」が自分の説明を補足、補強、そして、自分の理解を助けてくれることが良くあります。
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