月曜日, 5月 01, 2006

質問

五月である。雨である。
確実に春である。
札幌の桜はまだ蕾(つぼみ)のままである。

新学期がはじまって、もう1ヵ月が経ってしまった。
当然いろいろなことがあった。
新しい出会い、新しい環境、新しい自分。
何もかもが一見新しく見える。

新しい授業のかたち、
まず「質問」ありきである。教官はそれに答えるかたちで授業が進む。
その教官曰く、
「講義という生徒の受身の態度では、効率が悪い」
のだそうだ。
「君は何が知りたいのか?」
その問に答えることで生徒の積極的な態度を引き出し、効率のよいものになる。

夕食に友人と食事をした。
彼は「日本史」を専攻している。
私は彼に「日本史の何が面白いのか?」と尋ねた。
彼は言葉に一瞬言葉につまってしまった。

今になって思えば、何という愚問をしたのだろうと。
相手から面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
こちらも面白い、気の効いた、意味のある質問をしなければならなかったのだ。

おそらく面白い、気の効いた、意味のある質問とは、
「自分が何が知りたいのか」、それを聞くことなのだ。

「そんなの当り前だ!」といわれてしまいそうだが。

だけれどその「当り前」のことができなかった。
それは「日本史の何か面白いのか?」という質問が、
日本史を学んでいる人には意味不明であり(面白いからやっているのだ)、
こちらが「面白さ」を真摯に尋ねてはいないからである。

「数学」を学んでいる私に、「数学の何が面白いのか?」と
尋ねる人はおそらく数学の「面白さ」を知りたくてそのような質問を
したわけではないだろう。

だから面白い、気の効いた、意味のある何かを引き出すには、
「ナニナニを知りたい」なら、
「ナニナニとは何か(どういうことか)?」
という具体性をもった質問をしなければならない(ならなかった)。
(「日本史の面白さ」とはあまりにも抽象的だった)

質問をする瞬間、一体自分は相手から「何を聞きたい」と思っているのか
しっかり自覚する必要がある。
(こんなことに、今ごろになって気づいた)

ときどき、自分が何をしたいのか、何を知りたいのか分らなくなることがある。
疲れているのか、腹が満ちたりているのか。

自分の外界への興味を失う時、そんなことが生物である私にあって良いものなのか?
生物として決定的な本能を欠いているのではないだろうか?

そんなとき、外界から嫌でも入ってくる刺激(受身の刺激)が
しかたなく世界と自分をつなぎ止めている。

2 件のコメント:

co.co.ro. さんのコメント...

少し話がそれますが、対話の中で質問をする聴き手というのは良い聴き手だと思います。
質問をするということは、きちんと相手の話を聞いている証拠だから。
何かをきっちりすっきり説明するというのはとても難しいことで、必ず何かしらの補足が必要になってくるけど、質問もせず納得した顔で終わっている人は結局、外面だけ舐めて、本筋についてきて来なかった人なんじゃないかと思う。

akishi さんのコメント...

>co.co.roさん
確かに、「何かをきっちり説明するというのはとても難しいこと」ですね。大学に戻ってから、授業やセミナー、自主ゼミ等で「(他人に)説明する」機会が急に増えました。ほとんどの場合、説明すればするほど「ぼろ」がでて論理的でなかったり、意味不明だったり、支離滅裂だったり、つまり、勉強不足を思い知らされます。そんなとき、他の人からの「質問」が自分の説明を補足、補強、そして、自分の理解を助けてくれることが良くあります。