タイトルは1974年に吉田拓郎が書いた歌「襟裳岬」の歌詞の一部。
GW(3、4日)を利用して、襟裳町へ行た。
大学の友人が新任高校教師として、この春から襟裳町に赴任してる。
そこへ遊びに行ってきた。
北海道は広い。
人はよく友人知人が尋ねてゆくとき、
「何も無い所だよ」「何も無いよ」という。
僕もかつて「カンボジアには、何もない。
せいぜいアンコールワットぐらいだろうか」なんて言っていたことがある(生意気に)。
しかし今回、札幌に住み始めてから初めて札幌を出て、襟裳に行ってみてわかった。
「何も無いなんてことは、絶対に無い」のである。
おそらく日本語の「何も無いよ」というのは、
一種の謙遜か都会や街と比べて相対的に「少ない」を
大げさに表現しているだけであろう。
札幌から襟裳に向かって移動中、車の窓から北海道の広大な景色を見ながら
「本当に北海道って何も無いんだな」などと僕は言ってしまったが、
それはただ「人工物」が極端に少ないだけ。
人工物と情報に溢れ返った都会、街での暮らしに慣れてた自分は、
それらが少ないだけで、「無い」と錯覚してしまうのだろう。
ただ感覚が鈍くなっているだけなのに。
襟裳に赴任した友人は、
「毎日、空の色が違うんだ。」と言っていたのが印象的だった。
きっとそんな違いに気付けるほど、感覚が鋭い(鋭くなった)のだろう。
ただ人は環境に慣れてしまう。
もちろん慣れなければ、心穏やかに過ごすことができない。
環境に慣れながら、鋭く繊細な感覚を持ち続けるにはどうすればよいのだろうか?
都会や街では、これでもかというぐらいドキツイ表現が溢れていて、
感覚がどんどん麻痺してしまう。
その麻痺した感覚にもひっかかるようにどんどんエスカレートしてゆく。
この繰り返しは終りが無い。
2 件のコメント:
「何もない」って表現は、少しの寂しさを表現している事もあるのではないでしょうか。
そう思った。
それだけです。
> かんさん
「少し寂しい」。
そうですね、襟裳は「少し」どころか「かなり寂しい」感じがしました。
たしかに、「私には何もないの」とつぶやく人がいたら、その人は「寂しいのね」と察するのが日本らしい感覚かもしれませんね。
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